オーブンについて

  もしも誰かに、実家の中で一番好きな場所は?と聞かれれば私は「オーブンの前」と答える。実家のオーブンは、ビルドイン型というものででガスコンロの下に埋め込まれていた。外国好きの母が選んだ海外製のものだから、小学3年生の女の子が丸まって入れるくらいの大物だ。その割にキッチンは狭く、作業台がオーブンの両脇を囲っているので、前に座ると両端を作業台に囲まれてオーブンと私だけの空間ができる。 

 

f:id:ikoya3254:20210328210822j:image

 

 座って何をするかというと、ひたすらお菓子やパンが焼ける様子を見る。小学生のころ、母が夏休みに分厚いレシピ本を買ってきて、毎日1つづつお菓子を作ろうといってプディングやクッキー、チョコレートバナナパイなどいろいろなお菓子を焼いた。オーブンの中で、じっくり膨らんでいく生地を見ているのが楽しくて、漏れてくる甘い匂いと少し暑すぎる熱に包まれていると、あっという間に時間が過ぎた。

 

 それからというもの、私はオーブンとたくさんの時間を共有してきた。1人でお菓子作りができるようになってからは、バレンタイン全日に夜なべして友達に友チョコを作る時、大学の合格発表まで不安で押しつぶされそうになった時、むしゃくしゃして眠れなくて、夜中にどうしても激甘ブラウニーが食べたくなったとき、私はいつも生地とそのときの気持ちを一緒に入れて、目の前で体育座りをして首の痛みと闘いながら膨らんだり、焼き色がついたりしていく様子を見ていた。キッチンが狭かったおかげで、生地が焼けるまでの間は私とオーブンは2人きりで、そこでは何も気にせず、泣いたり、ニヤニヤしたり、ぼーっとしたりすることができた。


f:id:ikoya3254:20210328210110j:image

 

 社会人になって一人暮らしをするようになり、しばらくはオーブンがない生活を送った。忙しくてお菓子作りはおろか料理もあまりしなくなったけれど、どうしてもオーブンの前で過ごした時間が恋しくて、社会人4年目にして一人暮らしには似つかわしくない大型のオーブンを家に招いた。実家のキッチンよりさらに狭く、オーブンを置く場所なんてなかったけど、冷蔵庫の上に無理矢理置き場所を作った。

 

 今は、冷蔵庫に腕と顎をのっけてすこし背伸びをしながら足をぷるぷるさせて熱を持ったオレンジ色の光が生地に容赦なく降り注いでいる様子を眺めている。これからもきっと、たくさんの悲しい思いや、うきうきする感情を持って中の様子を眺めるのだろう。私の仕事は引っ越しが多いから、住む家によってのぞき込む姿勢は中腰になったり、座ったり、背伸びしたりいろいろ変わる。でも、オーブンを覗くときのこの安心感だけは変わらないでいてほしいと思う。

 

 180度の空間に閉じ込められ、気ままに膨らんでいくシュー生地を見ながら、腰が痛いって文句を言いながら中腰で中を覗く自分の姿を想像して、ふっと笑った。

 

f:id:ikoya3254:20210328210057j:image